海舟の義時評 | 東海雜記

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今日の朝日新聞天声人語に大河ドラマ『鎌倉殿の13人』、北条義時について載っていました。

以下に引用します。

 

(前略)

1221年の承久の乱で後鳥羽上皇を制して隠岐に配流したことから傲岸不遜な逆心という印象が強い。わが高校の社会科教師も「日本史上、屈指の悪党」と生徒たちに教えたものだ。だが最近の研究では、悪辣だと強調されることはあまりないらしい。

(後略)

 

私などの子どもの頃も、教科書や教師が「天皇に対してどのようにふるまったか」をその人物の評価基準にすることが時々ありました。

蘇我氏は厩戸王(聖徳太子)の一族を滅ぼし、大王家を凌ぐ勢いを誇ったので「悪逆非道」であり、乙巳の変(いわゆる『大化の改新』の始まり)の覚え方も

  「悪い入鹿を蒸し殺せ(ムシコろせ=645年)」

でした。(『無事故(ムジコ=645年)の日無し、大化の改新』というのもありました)

藤原氏も平清盛も天皇を凌ぐ勢いをもったので、印象がよろしくなかったし、足利尊氏は鎌倉幕府を裏切って後醍醐天皇についたのに、また寝返って北朝を立てるし、義満は南朝の後亀山天皇をペテンにかけるような形で南北朝合一をはたしたので、源氏の名門といえど教師にも子どもたちにも人気がなかった。

 

ただ北条義時はほとんど語られませんでした。承久の乱と言えば「尼将軍」政子の涙の訴えがメインであり、義時も大江広元も後鳥羽上皇も語られなかった。

 

個人的には歴史小説や雑誌などから、

「後鳥羽上皇については向こうから手を出してきたのだから、流罪は当然だろう。武士が朝廷に打ち勝ったのだ。義時が悪い訳じゃあ、ない」と思ってました。しかし一方で

「主君である実朝を暗殺した(親父の時政は頼家を暗殺した)陰謀家。息子の泰時に頼朝の名前を捨てさせた恩知らずな奴。もしかして頼朝も親父と共謀して暗殺したんと違うんか。吾妻鏡には『落馬』と書いてあるそうやけど、北条に都合よく書いてある史料だから信用できんな」

とも思いました。

※泰時は頼朝を烏帽子親にして元服し「頼」の字をもらい、最初は「頼時」と名乗っていました。

 

義時ファンの皆さま、申し訳ありません。すべて昔の話です。今は実朝暗殺の黒幕とは思っていないし、「義時は降りかかる火の粉を払いのけ、払いのけしているうちに政治家としてのスキルがついたのだろう」と思っています。

 

さて勝海舟は義時をどのように評価していたかというと……

 

 

北条義時は、国家のためには、不忠の名をあまんじて受けた。すなわち自分の身を犠牲にして、国家のために尽くしたのだ。その苦心は、とても軽々たる小丈夫にはわからない。(中略)おれも幕府瓦解のときには、せめて義時に笑われないようにと、幾度も心を引き締めたことがあったっけ。――『氷川清話』(勝部真長編)から引用

 

頼山陽など世間が酷評している義時の良さを俺は知っているんだぞ、という点がやや鼻につくのが海舟の損なところ。ただこの談話から、海舟が幕末維新の折、皆に嫌われながらも国家のためにやってきたかという自負がうかがえます。『瘦せ我慢の説』の福沢先生はをはじめ、栗本鋤雲、福地桜痴などの旧幕臣はもちろん、果ては「妻子すら俺に反対してた」そうですから(もっとも母だけは味方してくれていたらしい)。栗本や福地、慶喜さんについては言い出すときりがないので、やめます。

 

海舟は北条氏を高く評価していました。陪臣であっても九代も続いたのは、民政に心を配ったからだとも評しています。もちろん彼が伝え聞いていた北条氏の事績は現代のそれとは違うでしょうが、彼が評価していたのは天皇に対しての忠、不忠ではなく、民政や経済だったところが興味深い。李鴻章や大院君への評価も、明治社会では珍しく良いものです。