聖書と数理哲学序説 | 東海雜記

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主に読書日記

私の家には大小さまざまな聖書がある。旧約・新約そろった正典だけでも6冊。日本聖書協会の口語訳、同文語訳、新改訳、共同訳、そしてキング・ジェイムズ・バージョン(欽定訳)。このうち最初の口語訳は2冊ある。私が一番最初に触れた昭和42年に出版されたものと、平成になってから出版されたもの。内容はまったく同じだ。42年のものは既にぼろぼろになっていて、何度か製本しなおしたがページの欠落があったため、新しく買いなおした。

この昭和42年のものは、もちろん私が買ったものではない。最初の父が買ったものだ。他に読む人がいなかったため、いつの間にか私のものとなってしまったが、最後のページに父の名前が書かれている。

私は思春期から青年期をクリスチャンとして過ごした。カソリック系の幼稚園に通っていたため、宗教的な行事やお話が幼い心に残っていたせいもあるが、やはり聖書が家にあったことが大きい。最初の父は私の人生の初めの6年ほどしかかかわっていないが、聖書を残したことで私に大きな影響を与えたと言える。

8歳のときに初めて手にした。その時はまだきれいだったから、父はクリスチャンではなかったのだろう。ただ数箇所、ドキッとするような言葉に赤鉛筆でラインが引かれてあった。人生のはかなさや女性の悪口が書かれている場面だ。その後私がさまざまな色であちこちに線を引きまくったため、どの聖句に線が引かれてあったかはもうわからないが、初めて目にしたときドキッとしたことだけは覚えている。

私はたぶんに理屈っぽいところがあるのだが、理屈っぽさと信仰とは結びつきやすい。ともに現実的でない一面を持っているからだ。誤解なきよう願いたいのだが、「一面を持つ」だから、現実的なところも、もちろんある。

もしかしたら私の少し浮世離れした理屈っぽさ、簡単に言えば理想主義的な面は最初の父の血を引いているのかもしれない。



私には二人の父がいたわけだが、「実父」「養父」という呼び方はできない。最初の父には悪いが、10の歳から大学を出るまで育ててくれた、そしてその後も何かと私を助けてくれた二度目の父を「養父」と呼ぶことはできない。彼こそが私の実父である。戸籍上も私たち兄妹は養子でなく実子にしてくれた。

先日父のことを書いたところ、「すばらしいお父様でしたね」とのお言葉をいただき、感激した。しかしこの父はまことに現実家で押しも強く、ゆえに倒産したとは言え会社をやってこられたわけだが、理屈っぽく理想主義な私とはそりが合わなかった。勘当されたこともある。

先日本を整理していたら古い岩波文庫が出てきた。ラッセル『数理哲学序説』。昭和45年の版。

ラッセル, 平野 智治
数理哲学序説

多分父が夜間大学の学生だったときに読んだものだろう。
私が覚えている父はあまり本を読まない人だった。読むとしても松下幸之助盛田昭夫岡田卓也など実業家の者がほとんどだった。父の意外な一面に触れた気がする。とは言うものの、よく考えてみればこれも父らしい。自分が作った会社に普通の人には耳慣れぬ数学用語を使った人だ。父の中には苦学して修めた学問に対する愛着があったのだろう。
旧字で書かれ、ページもすっかり変色した本だけれど、結構面白い。今朝の公園で読んでいる。


私がもしいなくなって、私の遺した本を人が見たらどう思うだろう。歴史の本、自然科学の本、ミステリ、ファンタジー、児童書、ライトノベル、漫画、宗教書などなどなど。まるで統一感がない。オタクだと思われるだろうな、きっと。