澤口たまみさん | 東海雜記

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主に読書日記

ここ一ヶ月、朝一時間早起きして、天気のよい日は出勤途上近所の公園に立ち寄ることにしています。ベンチに座って、朝の空気と光に触れ、時には本を読んだりします。

こんな柄にもないことを始めたのは、先日紹介いたしました澤口たまみさんの本を読んだためです。


たまむし日記


澤口さんは岩手県にお住まいの、生き物のお好きな作家さんであり、お母さんであります。そして私たちと同じブロガーさんであります。
本書は澤口さんがご自身のブログ『たまむし日記』から60編を採択し、若干の修正を加え、一冊にまとめたものです(本書「プロローグ」より)。

『たまむし日記』のURL→http://moon.ap.teacup.com/tamamushi/


以前ご紹介しましたように、澤口さんは生き物に対してとても優しいまなざしをもっていらっしゃいます。

これは本書のタイトル『虫のすむ家 雑草の庭』からもうかがえます。虫や雑草は、とるに足らない存在として扱われることが多い。虫が入ってきたら排除し、雑草が生えてくれば引き抜いてしまう方もいることでしょう。そんな彼らを文字通り住まわていせる澤口さんの目はどんな小さな生命もとらえ、その心は彼らのメッセージを受け取り、そして私たちに伝えてくれます。

もちろん虫や雑草ばかりでなく、そのまなざしは犬や猫、鳥、園芸植物といった私たちに近しい生物、そしてご自身のお子さんをはじめとする子供さんたち、そしてお母さん方にも及んでいます。


「虫が好き」というと「変わり者」あるいは「人間嫌い」というイメージを抱く方がいらっしゃるかもしれません。中には『コレクター』という映画を想起される方も。

確かに私は多少虫好きで傲慢な人間は嫌いですが、世の中、虫も嫌いで人間も嫌いな方もいれば、両方とも好きな方、人間好きで虫嫌いな方などさまざまで、そこは他の事物が好きな方と変わらないと思います。

ただ、失礼ながらえらそうな事を申しますが、虫も生き物である以上、虫好きな方は生き物が好きな方となるわけです。そして世間の評価として「生き物が好き」=「優しい」というのもある。ということは

虫好き=生き物好き=優しい

という評価が下せるであろうことを付け加えさせていただきたい。ちょっと強引だけど。

*ここでいう虫は昆虫ばかりでなく、やまと言葉の虫、「ミミズだってオケラだって」の虫と解釈願いたい


さてさて虫好きにこだわりすぎてしまいました。本書は先述しましたように虫や草の話ばかりでなく、お子さんのお話やご自身の子供の頃や若き日の話、旅行記、そして郷里岩手県の偉人である宮澤賢治のことなど多岐にわたっています。ご自身の「ずぼら」も包み隠さず書いていらっしゃる。

犬や猫を飼ったことがある方、飼ったことがなくてもお好きな方はきっと本書を読んで心温まる、また胸つまされる場面が多かろうと思います。またお母さん方は子育てや家事の描写にうなずかれることでしょう。

私が冒頭柄にもない話をしましたのは、本書に収められた賢治の話に影響されたからです。

本書4話目「光の子ども」では朝の光をあびるお庭の話から賢治の話へとつながり、そして賢治の言葉を受けて


人間の場合、光や風をエネルギー源にして、養分を作り出すことができるとすれば、それは心の栄養にほかなりません。

(18ページ)


と述べていらっしゃいます。

私はこの言葉に非常に感銘を受けました。いわば「賢治流光合成」あるいは「澤口さん流光合成」と呼べるこの考えに触れたときに、陳腐な表現ですが、雪が日の光に当たったように、私の中の何かかたくななものが溶けてゆくのを感じました。

それ以来雨の降らない日には早朝近所の公園に行き、朝の空気と光に触れています。南北を大通りに区切られたこの公園は「ビジネス街のオアシス」として近所の人々にも親しまれているとか。早朝のことゆえ車も人の通りもほとんどありませんが。

私はこの公園で朝の光を浴びながら、多量の排気ガスの中辛抱して立っている木々たちに感謝し、時折通りかかる人々と挨拶を交わし――「おはようございます」という挨拶は、他のどんな言葉よりも交わしやすいものですね――時にはお気に入りの本を読みます。


『たまむし日記』
もそうしたお気に入りの一つであることは言うまでもありません。